2012年12月9日日曜日

ていねいに、ていねいに。

お芝居を、見てきました。
下北沢にて。

お芝居はすきで、よく見にいく。
むろん、ひとりで。

映画や展示やお芝居やそういうのは、ひとりで。
別段、そう決めているわけではないのだけれど、
そこに漂う空気まるごと味わいたいので、
そして終わってもしばらくは、その空気の中に身を浸していたいので。
終わったあとすぐにしゃべると、何かをとりこぼしてしまうような、
なんだかちょっともったいない気がするのです。
(もちろん、人がきらいなわけじゃないんよ。)

さて、今回のお芝居。
よく行くお店の店員さんが出演されていたのです。
もちろん私は、店員としての彼しか知らないので、
なんだか不思議な心持ちでいたのですが、
いやはやとても良いお芝居でした。

序盤からずっと泣いては鼻をずびずび言わしてました。
隣の知らないお兄さん、ごめんなさい。

生きる、ということは。
なんとまぁ美しく、それでいてどろどろと生々しいの。
生きているからにはどのぐらいか先に必ずある、死。

ひとによってその長い短いは違う。

いつ死ぬかなんて、わからない。

けど。
私はたぶん、明日もちゃんと生きている。
ちゃんと目を覚まして、会社へ向かう。

その日常を、だいじにだいじに生きていたいと思う。
いつ死ぬかわからんから、とかじゃなく。
いつ死んでもいいように。
たぶんその最後に、十分に愛されて十分に愛して、十分に生きた、という満足感があれば。

日々をていねいに、濃く。

これはずっと心に留めておきたい。

そんなふうに思わせてくれる、お芝居でした。

それから、ふと。

自分も、表現の種類は違えど創り手のはしくれ。
(プロフェッショナル、アマチュアの別なく、広義に)

芸術、ということについて考える。

それはみんなに等しく、同じだけ必要なもの――

では、ない。

誰かにとっては必要不可欠じゃし、誰かにとってはまったく要らんもの。

水や食べ物とは、少し違う。
それがなくなったからと言ってただちに日々が困窮するものでは、ない。

けれど。

けれどそれぞれの持つものを、思いを、それぞれの形で、出していく、ということ。

表現する、ということ。

この欲求は多かれ少なかれ、誰しもが持っているものではないかな、と。

ならばその欲求、なんらかの形で外へ出したほうがよい、というもの。

そしてそれは、受け手がいて初めて、成立する。

言わばひととひとを、つなぐもの。

ひとが、進化してきたという事実に、私がありがたみを感じることのひとつが、
感性を持ち合わせているということ。

敏感で繊細で、時に大胆で。

決していつもきれいなわけではないその感性を、
みんな自分のやり方で磨いて磨いて、
創ったり見たり読んだり聞いたり触れたり、する。

そう、必要不可欠、ではない。

けれど、発したエネルギイがたしかに、空気を震わせる、ということ。

微かでも。

その微細な振動が、空気の流れを変えるということ。

そしてそれを受け取った誰かの日々が、
ほんのちょっとでも色づき、豊かになるということ。

その光景を見たいから、私は書き続ける。

どこでどんなふうに、誰をしあわせにできるのか、まだわからないけれど。


それでも、続けていれば。

きっと。

私の言葉で、ほんのすこしでも誰かの世界をやわらかくできたなら。


そう思いながら、私はきょうも、筆を執るのです。




2012年11月16日金曜日

かく。

文章を、書いています。

というのはもう、よくよく言っていることですが。

世の中に表現の数は無数にあるけれど
わたしはその中で、言葉を、文字をえらんだ。

えらんだ、というより、ふくらんでいく頭の中に
あらわれては消える文字たちの、
裾を必死につかまえてはたぐりよせていくような。

まぁつまり、書くしかなかったわけです。

わたしは。

自分が、才能があるかどうかなんてまだわからん。

向いてる向いてない、もきっとあるんだけどよくわからん。

それでも。

おもしろいものを
やわらかいものを
すてきなものを
つくっていこうという気持ちはあふれていくばかり。

だから私はきょうも、書くのです。

わたしの愛しい言葉たちにふれて、
誰かの日々がほんの少しやわらかくなれば、いいなぁ。

そのためにわたしは、いろいろのことに敏感でいたい。

感覚を、すっと澄まして。

できるだけ、純粋でいたい。
外側のものに対しても。
できるだけ、ふれていたい。

表現、していきたい。これからも。






そんなわけで。
12月15日20時、代官山Eau Cafeにて。

他分野の表現者たちによる、一夜限りのアートイベント・union。
に、参加します。
写真と音楽とことばのコラボレイション。

心の中にじんわりと拡がっていく夜のような空間を、言葉で演出できたらと思っています。

ぜひ、お時間のある方はお越しください。

オーナーの粋なはからいで、この夜限りのメニューも登場します!

すてきな表現者とおいしい料理。

少しだけおだやかな時間を過ごしてみませんか?


フライヤーが出来上がりました。 






かわいい!
これ、みんなの作品の切れ端をコラージュしたものなのです。
みんなの思考の一部がまざりあったみたいで、楽しいね。

皆様ぜひお越しくださいませ。


2012年11月13日火曜日

ねつ。

熱が、出ました。

ああまずいなまずいなこれ、と思いながら
ふらふらとベッドにダイブしたのがきのう。
まだ寝るには早い時間だったのだけど、
私の意識はとうにすっ飛んでいました。

それから真夜中に目を覚まし。
割れそうな頭を抱えて熱を。

38度7分。

今日はお休みを頂いて、おうちで寝ています。

わたしは、すぐに外に出たがる。

うずうず。

もちろん、今は身体がYesと言ってくれないので、
毛布を頭からかぶってとろんとろんしています。

こういう日も、悪くない。

お仕事をお休みさせてもらっているという申し訳なさはあるけれど。

楽しいことがあると、気持ちは走り続けてしまうので、
身体がときどき、ちゃんと休め、と言ってくる。
そんなこと言ったって走りたいんだよ、と、頭は膨らみ続ける。
でもまぁ、たまには言うことも聞いておきましょ。
これからも付き合っていかなくてはいけないからね。

朝はほんとうにベッドから一ミリも動けなかったのだけど、
今は少しずつ回復してきました。



昨日はつかっさんとごはんを食べました。

会うのは二回目。
予想していたとおり、面白い話ができました。

私の個人的な持論ですが。


いいものを持っているひとは、いい顔で笑う。


おおむね、間違っていないと思います。
経験上。

つまりそれは、心の、ちゃんと内側から笑っているからだと思う。

ちゃんと自分の中でいろいろのことを考えているひとは、
すごく苦しんだりもするけれど、
すごくいい顔で笑う。

私はそういうひとがすきなのです。

これからもいろんなひとと話していきたい、なぁ。

そうして私もいい顔で笑うために、自分と全力で向き合って、
やりたいこと目いっぱいやってこうと思います。

そんなわけで唐突にお知らせを。
12月15日に代官山eau cafeにてイベントをやります。
わたくし、表現します。

今回は、音+写真+ことばのコラボレーション。

おもしろいもん作ろうといま必死に(でもゆるゆる)動いていますので、お暇な方はぜひ。

思えばこのパフォーマンスの構想を練り始めたのが今年の4月。
年内には絶対やろうという約束、が、見事に果たせそうです。
最初は、ピアノ弾きの友達と何か一緒にやれたらいいね、から始まったのですが。
拡がって拡がって、映画撮りや写真撮りも加わって。
なんだか新しいイベントになりそうです。

フィールドは、みんなばらばら。

でも、表現したい気持ちは、みんないっしょ。

そんな5人が、それぞれのやり方で、空間を演出します。

見にきてくださるとうれしいです。

表現という方面で、もっと可能性を広げられたら。

自分の核は言葉なのだけど、紙の上だけじゃなく、もっと生で感じてほしいという欲求があって。
ライブの空気感。
が、もともと好きなのも相まって、文字も、できる限り視覚的なアートとしてとらえてほしいと思ってる。
頭で考えるより先に、目で感じ取ってほしい。
意味、を考えるより先に、感覚を楽しんでもらいたい。
そこんところの試行錯誤を、もっとしたい。

まぁ、失敗してもともとです。

よいのです。それで。

ひとは、動いていく。
ひとは、変わっていく。
ひとは、去っていく。

いつまでも同じまんまじゃいられません。
いつまでも一所にとどまってなど。

でも、その動きの中で新しい発見や出会いがあったりする。

だから、ゆっくりでも進んでいこうと思います。

来年、忙しくしたい。

いま、遊んでばっかじゃけぇなぁ……笑




2012年11月1日木曜日

as you are.

大人になるにつれて、自分の中で「心地よさ」がとてもだいじになってきた。

自分にとって

心地よい服を着る

心地よい場所に行く

心地よい人と居る

心地よく、生きる。

ゆっくり、じっくり、が、私にとっては心地よいみたい。

せかいは、ときどきとんでもない速さでまわって、
わたしは簡単にふりとばされそうになる。

そうして、ひどく不安になることもある。

そんなときは、ちいさくつぶやいてみる。

「だいじょうぶ」

みんな、ちゃんと自分だけの時を持っていて、
それが速いか遅いか、ただそれだけ。

だいじょうぶ。

進んでいることに変わりはないから。

まわりがどんなに速く進もうと、自分の中にはちゃんと、自分だけの時がある。

右足と、左足を、交互に前に出す。

そうすれば、身体は進んでいく。

ときどき立ち止まっては、景色をながめたり、自分の来た道を振り返ってみたりする。

そこにはちゃんと、自分が歩いてきた足跡が、それぞれの形で残っている。

だいじょうぶなのです。

心配せずに進みましょ。

自分にとって心地よい速度で。

そのまま、そのまま、自分のまま。

2012年9月17日月曜日

fukadaso

fukadasoの作品展に行ってきました。

まず、建物からして、すごくすき。






とてもよい雰囲気。

ひとつひとつの部屋が、小学校の教室のようななつかしさをもって迎えてくれた。

そしてそこにずらりと、素敵な作品たち。

作品は人柄を映すと私は思っているけれど、ほんとうにそう。
作家さんたちもみんな、すごく素敵な方々で。

そうなるとがぜんお話したくなっちゃうのが、わたし。

とくに照明の展示が気に入って、作家さんお話させていただきました。

村松さちえさんという方。
和紙を使った照明をつくられています。
和紙で切り絵してバースデーカードをつくったりもする私。
これはほんとに、ツボでした。
絶対に近いうちにオーダーしよっと。

ほっこりするんだけど、とても丁寧なお仕事が見える素敵な照明たち。

あかりって、生活になくてはならないもの。
その日々のすきまに、やわらかい光を灯してくれるような。

村松さんとお話させて頂いたのだけど、ご本人もやさしくてやわらかなひとでした。

村松さんの照明はこちらで見れます。 
http://www.sachiemuramatsu.com

ものづくり。
作品づくり。

続けていくことはむずかしい。
維持していくことはむずかしい。
質を上げていくことはもっとむずかしい。

あーたいへん。

でも、じゃなきゃおもしろくないよね。

わたしはまだまだ、なにも世に出せてないけれど、
いつか文字で世界をほんのすこしでもやわらかくできるように、
書き続けたい。

そしてそのために、いいものをずっと見ていこうと思う。

素敵な出会いに日々、感謝。








あんのん







2012年8月7日火曜日

となり。

となりにいるのは、誰だろう。
いつも笑わせてくれる。
となりにいるのは、誰だろう。
いつも笑っていてくれる。

良い歌を聞いた日は、いつもより正直になる。

ときどきはちゃんと言わないとね。


ありがとう。









あんのん

2012年5月31日木曜日

さいご。

わたしが死んだら、と、ときどき考える。
駅のホームで電車を待つ間、
友達と歩いていてふっと沈黙が訪れる瞬間、
朝目覚めてすぐ――。

それは、けれど、全然ネガティヴな意味ではなく。
ただ、ふっと思うだけだ。

私が、死んだら――。

私は今、生まれ育った場所から遠く離れたところに住んでいる。

そしてここには、「血」という意味では私に繋がる人は誰ひとりいない。

だからたとえば私の生死を揺るがす、
何か大きな「事」が起こったときに、 私を探してくれる人はいるだろうか。

さあ、どうだろう。

それはわからないけれど。

私がこの先、誰かを愛して誰かに愛されて
人生を共にする決心をして、そうして私がその人より先に死んだなら。

してほしいことがある。

私の姿が、ほんの小さな骨かあるいは灰になった時、
その灰を、いくつかの場所に撒いてほしい。

まぁ、まるで何か、安っぽい映画のワンシーンじゃない。

そう思われてもいい。

まず、私の生まれ育った、広島。

できれば尾道の海がいい。
そして撒くのは晴れの日を選んでほしい。
青く透き通った海に、白い私のかけらがまじるのは、なんかいいだろうと思う。

そして、ベルリン。
たった一年だけれど、私はベルリンに住んでいた。
そこで多くの人と出会い、私の心は今も強くその場所を求めている。
いつか、どんな形でも「帰る」だろうと思っている。

そして最後は、生前私が一度も行かなかった場所。
エジプトかもしれないし、インドかもしれないし、名前もわからないちいさな島かも。
案外、国内だったりするかもしれない。
別に、どこでもいい。
まだ見たことのない景色が広がっているところなら。
欲を言えば、風の心地良い、海の見えるところがいい。

ものすごくわがままかもしれない。
お金もかかるし。
それでも、愛するひとにはそうやって、私のお弔いをしてほしい。
そんなことを、笑いながら話せる人に出会いたい。

どうしてそんなことをしてほしいかというと、
大好きな人と一緒に最後の旅をしたいからだ。

私の故郷を見せたいし、
私が大好きだった場所を見せたいし、
そうして愛する人と、全然知らない場所を、私も見てみたいんだ。
何倍にも軽くなった身体と魂で。

生と死は、切り離しては考えられない。

生まれたからには、死に向かって生きていかなきゃいけない。

走っていくのか歩いていくのか、その人の自由だけども。
ランナーズハイのまま、走り抜けるのもいいだろう。
ゆっくり道草しながら歩くのも、悪くない。
どちらにしてもそこへたどり着くときに、私は笑っていたいと思う。

十分に満足した、と。
十分に愛された、と。
そして十分に愛した、と。

今生きているということは、きっとものすごい奇跡の積み重ねなんだろうと思う。

大げさでもきれいでも全然ない、奇跡。

どうせなら最後の最後まで、わくわくでいっぱいにしたい。





あんのん



2012年5月30日水曜日

ゆめ。

五月だというのに、まだ朝はとても寒くて、
それなのに太陽は五月のそれそのもので
とても健康的なエネルギーを発するから
私は混乱してしまう。
 




自転車をこぎながら、今日みた夢について考える。
もともと夢をよく見るたちで、
その夢はいつもわりとくっきりとしているから
(もちろん内容は突拍子もないこともあるけど)
時々、どっちが夢で、どっちが現実かわからなくなる。
今日見た夢。
ちいさい頃から何度も見ている夢を、今日もまた見た。
 
それは、おばあちゃんのうちには、秘密の部屋があるという話。
弟とかくれんぼをしているうちにそれを見つけて、2人で探検する夢とか、
その秘密の部屋でニワトリをこっそり飼う夢、とか、
忍者になって追手から隠れる、とか。
状況は様々なんだけど、不思議なことに、
毎回、その部屋の構造は寸分違わず同じだ。
部屋、というよりは空間というほうが正しいかもしれない。
 
おばあちゃんちにある小さな物置に続く、普段は使われていない扉。
そこを開けると、木の階段が現れる。
ちょうど、トトロでメイとさつきがまっくろくろすけを追いかけて上がったような。
ただし、それは二階へ、ではなくて地下へと続いている。
踏み出すとみしり、と音を立てるそれを、私はいつも降りていく。
怖れと、期待をもって。
降りるとそこは、窓もないのにいつも、太陽の光が薄く射している。
電気じゃない明るさ。 
そして、とてつもなく、広い。
この時点でもう、完全に現実にはあり得ないのだけど、私はどこかで、
その部屋が本当にあるんじゃないかとうっすら思っている。
私は怖がりで、あったとしても地下なんて絶対にひとりで行ったりしないけど、
その空間だけは、実在すればいいのに、と。
 
そして、これもよくわからないのだけど、その秘密の空間が夢に出てくるときは、
どういうわけか決まって私はこどものままなのだ。
普段見る夢はわりと現実に寄り添っていて、私はちゃんと今の私なんだけど。
夢占いというのがあるけど、一体この夢は何を表しているんだろう。
豪邸を持ちたい、とか単純なものだったら、笑ってしまうな。
私は、だけどそれを解明したいとは思わない。
 
夢は、夢だ。
それ以上の重さも、それ以下の軽さも持ってはいけない。
ただ単純に嬉しいのは、その夢ではいつもおばあちゃんに会えるということだ。
私のおばあちゃんは、とても可愛い。
いつもにこにこして、私を見ている。
それだけで私も嬉しくなってしまう。
 
あの、秘密の空間。
きっとどこかにはあるんだと思う。
たとえうちじゃなかったとしても。
 
そんなことを考えながら、自転車をペダルを踏む。
駅の雑踏。 
いつもの風景。
みんな何かしらの目的を持って、改札をくぐる。 
現実の朝が、始まる。
 
誤解のないように言っておくと、私の大好きなおばあちゃんは今もご健在だ。
 

 
 
 
 
 
 
あんのん 

2012年5月29日火曜日

よる。

夜は、すき。
性質は朝型で、とても遅くまで起きてはおれんけど。
すぐにねむたくなってしまう。
夜はぐっすりで、朝からテンションが高い。
夏休みのこどもみたいな体質の私。

夜のドライヴも、すき。
私は運転免許を持ってないんだけど。
だけど私には強い味方ができた。
そう、自転車。
ドライヴとは言えないけど。
これで私は夜へ繰り出せる。
いつでも、好きなときに。

一人で走るのも、誰かと走るのも、両方すき。

一人で走るときは、けれど、私はすごく怖がりなので、すぐに帰ってきてしまう。
あの真っ暗に吸い込まれていって戻ってこれなくなったらどうしよう、とか、後ろから手がにょきにょきと出てきて私を捕まえたらどうしよう、とか途方もないことを考えて怖くなる。
(そして書きながら今も怖くなって後ろを振り向いてしまう。)
それでも夜の風はすごく気持ちがよくて、少しの距離でも大冒険した気分になる。
「今日、一人で夜道を走ったんだぜっ」と、誰にともなく得意げに話したくなる。

ひとりのとき、私は鼻歌を歌う。
夜だろうとおかまいなしで。
どうせだれも聞いていないので、思い切り歌う。
もはや鼻歌ではなく、熱唱する。

それは思い入れの深い曲だったり、なんとなく街で聞こえてくる曲だったり、あるいはゲームの中の曲なんてこともあったりするのだけど。

夜にすっと声が溶けていくのは気持ちいい。

上手とか下手とかじゃなくて、ただ気持ちいい。

それでいいんだ。
だってプロフェッショナルじゃないもん。

横に人がおってくれるのは、もちろんすきだ。
怖くないし、疲れたら休んで話もできる。
ひとりのときとは、意味の違う楽しさ。
共有できる、というのはとても素敵でとても貴重なことだ。
「何か特別なもの」を、ではなく「何気ない日常」を。


そうやって夜を十分に満喫して、私はひとり家に帰る。

私の家は、一人暮らしには広すぎて、いつも少し心許ない気持ちになる。

すーんとした、気持ち。

だからすぐに好きな音楽に包まれながら本を読む。
できるだけ私は私をあまやかす。
そうして明日に身体と心を持っていく。

ゆっくり、ゆっくり。

夜は、とても怖いけど、実はとてもやさしい。



すうじ。

世界は、数字であふれている。

たしかに、数字はとてもわかりやすい。
何をどれぐらい、私たちは持っているのか。
何がどれぐらい、私たちには足りていないのか。

数字で見れることは、とても信用できる。

だけど。

数字にばかりとらわれている人を、私はどうしたって信用できない。

自分の外側には、自分を決定する「絶対」は存在しない。

いつだって最後は、自分自身で決めるしかない。

そんなときに、数字ばかり見て、自分の意志や価値や考えや、色々を無視してしまうのはとても残念だと思う。

「価値は命に従ってついてる」

椎名林檎の曲の歌詞。
人間の価値は、何をどれだけ持っているか、という、外的条件だけでは計り知れない。

数字はすごく大事だけれど、絶対ではない。

そう思う。

恋愛にしたって、そうだ。

過去に何人の人と付き合って、とか経験人数はどれだけで、とか。
そんなことを得意げに話す人を見ると、なんだかげんなりしてしまう。

何の意味があるんだろう。

もっと他に、話すことがあるんじゃないのかな。

過去にすがるなんて、意味がない。
常に今と向き合えばいいのに。
今、一人の大事な人を幸せにできていれば、そして自分もその人といることで幸せでいられれば、それでいいのに。

同じような理由から、私は全ての人に好かれる必要はない、と思っている。
人と関わりあっていれば必ず、合わないことも出てくる。

どうしたって、人と人が触れ合えば、摩擦は生じる。

そんなときに、自分を根本から曲げてまで誰かに合わせる必要はない。
自分には友達と呼べる存在が何人いるんだろう、なんてことを気にして憂鬱な気持ちになってしまうのはもったいない。
全ての人に好かれようとして自分の持っている素敵なものを失ってしまうのは哀しいこと。
自然体でいられる人たちと一緒にいればいい。
その数が多いか少ないかなんて、これっぽっちも問題じゃない。
世界にはいろんな人がいて、合わない人だってどうしてもいるけど、その分、きっと自分を受け入れてくれて、一緒にいて楽な人だっていっぱいいるから。

そういう人たちを、自分のやり方で大事にしていければいい。

人はいつだって自分が一番大事で、自分が一番可愛い。

それでいいんだと思う、基本的には。

自分を大事にできん人は、人も大事にできん。

だから、自分にとって一番居心地の良い場所を、探し続ければいい。

数字は、あくまでも目安であればいい。

ほんとうに大事なものを、いつもちゃんと見失わないでいたい。







あんのん

2012年5月28日月曜日

ぼうけん。

きのう、冒険をした。

なんのことはない、自転車で地元の駅から代々木公園まで行ったのだ。
それでも私の地元の駅からそこまでは17キロほど離れていて、つい最近自転車を買った私は一人で遠出をしたことがなくって、それは私にとっては立派な冒険だった。

朝、早起きをする。
夜よりも断然朝が得意な私。

朝ごはんはきちんと食べた。
最近、しっかりとした朝ごはんできちんと朝を始められるひとは、なんだか心に余裕があって素敵だと思うから、私も手を抜かない。
さつまいもとレーズンの蒸しパンと、ピクルス。
トマトやパプリカの色とりどりで、すでに私の心はうきうきになる。
単純だ。
食べることがすきなんだ。

それから日焼け対策タイム。
ここは抜かりなく。
外であそぶのが好きすぎてもうすでにしっかりと焼けているのだけど、それでも気持ちはわりかし乙女なので、 少し奮発して買った日焼け止めを塗る。
あと紫外線は身体によくないし。
皮膚ガンになっちゃうし。

ちゃんと教えてもらった、ザ★王道な道、わかりやすい道、きっと最短で目的地に連れてってくれる道があるのだけど、そこはあまのじゃくな私、ちょっと変わった道を行ってみよう、と思い立つ。
というか、王道は車が多すぎて小心者な私には少しハードルが高いので。
これまた最近自転車に乗るために買ったiPhoneを片手にいざ、出発。

朝の、人気のない道、なんて気持ちいんじゃろう。
誰もいない道をさっそうと走り抜ける私(しかしスピードは遅い。)
もともと歩くのがすごく好きで、どこまでも歩いていけるんだけど、自転車はまた、別。
やっぱり行動範囲はぐんと広がるし。

このままどこまでもまっすぐ行きたい、とはしゃいでいたら、案の定道に迷った。
ココハドコデスカ。

見たことも通ったこともない狭い路地で道に迷うのは、心底不安になる。
でもそれと同時になぜか私のテンションは上がっていく。
「わ!今私道に迷っとる!ぜんぜんわからん!」と、謎の高揚感を以て。

結果、一時間そこそこで行けるのに二時間半かかった。
こういうことがあるから、私は人を案内など絶対にできないなと思う。
迷っても笑って済ませてくれる人とじゃないと無理だ。
迷うこと自体を楽しんでくれる人じゃないと。

代々木公園に着くとラオスフェスをやっていた。
大好きなグリーンカレーでお昼ごはん。
何人か友達に会う。

友達の友達にも、会う。
彼の笑顔がびっくりするほど素敵だったので思わずくらりとしてしまう。
別に、顔がかっこよかったわけじゃない。
ただ、笑顔がもう、満点だったんだ。

私は人生で一度だけ一目ぼれをしたことがある。
ほんとうはじっくり話してからじゃないと人を好きになったりしないんだけど。
うっかりと、ほんとうにうっかりと恋に落ちてしまったことが一度だけ。
その時もやっぱり、笑顔に惹かれた。
振り返ったその男の子の笑顔に。
何を話してんだか、だけどもう10年も前の話なのでまぁ、時効だ。

子どもも大人も関係なく、笑顔は素敵だ。
笑っている人を見るのが好きじゃし、笑わせてあげたいと思う。

そんなわけであんな素敵な笑顔を見たのは、人生で三人目だ。
くしゃっと、ほんと心の底から笑ってます、みたいな笑顔。
きっと、絶対にいい人だ。
笑顔のいい人で悪い人は、いない。
これは自信をもって言い切れる。

友達に聞くとやっぱり「あいつはほんとうにいいやつだよ。」と返ってくる。
やっぱり。
私は人を見る目は、悪くないと思っている。

会ってすぐばいばいしちゃったけど、なんだかその笑顔に幸せをもらったので私はまた意気揚々と自転車をこぎだす。

帰りは、王道を通って。
そしたらなんと一時間半で家に着いた。
あの迷った二時間半は一体。

でも、それを含めて素敵な一日だった。

迷うことがなければ、すんなりと何もかも上手くいけば、スムーズな人生だけどそれはそれでつまらない。
考えなくなってしまうから、きっと脳みそがしぼんでしまう。

大いに迷っていいんだと思う。
道も、人生も。

そんな大言壮語を吐いてみたけど、結局私はどんなことも楽しいと思ってしまう、ただそれだけのことなんです。

次はどこへ行こうかな。





あんのん

2012年5月22日火曜日

日々、安穏。

ブログをもう一度書いてみようかと思った。
理由は特に、ない。
ただ、なんとなく。

文章を書くのが好きなのと、それなのに紙の日記は続かないことと。
そういうもろもろがきっかけで。

私は、文章で作品を作っておりまして。
プロではないけども。
もともと、このブログはその作品たちをちょこちょこっと載せていくというような趣旨のもと始めたもんだったんじゃけど、この度、お友達が「...end」という文章サイトをオープンさせまして。
そちらのほうに有難くも私の作品も載せてもらえることになり。

http://endkikaku.com/index.html

これが、それ。
ぜひともみなさんに見て読んで頂きたい。
文章を愛する人たちが集まって、書いております。

で、このサイトオープンに伴って、こっちのほうは閉じよう、っと。

そんな感じでブログを非公開にしてました。

が、まぁなんとなく日々のこと、私のシナプスは少々いかれているのですぐに忘れてしまう。

ほんまに。

良いことも悪いことも、すぐ。

そんなわけで備忘録的にね。
ブログでも書こうかいな、と。

ゆるっと、「ああ、たどり着いてしまった」って人はコメントでも残していってください。

意外と、にやりと喜びます。

そんな感じで、たぶん三日坊主、でも、ゆるゆると日々を書き連ねていくよ。

日々と、日々思うことと、その他もろもろを。






あんのん